脳梗塞を発症した後のリハビリ期間中、最も警戒すべきリスクのひとつが転倒です。
特に麻痺が残っている患者さんの場合、本人の回復意欲と実際の身体機能とのギャップが危険な状況を生み出すことがあります。
今回は実際の医療現場で遭遇した60代男性患者Aさんのケースをもとに、転倒リスクの実態とその対応策について考えていきます。
脳梗塞後遺症による身体機能の変化
脳梗塞の後遺症として右側の不全麻痺を抱えているAさんは、立っているだけでもバランスを保つことが難しい状態でした。
車椅子への移動ひとつをとっても、誰かのサポートなしでは危なくて見ていられません。
このような状態は決して珍しいものではなく、脳血管障害を経験した多くの方が直面する現実です。
麻痺のある側の感覚が鈍くなっているため、自分では気づかないうちに身体のバランスが崩れていることがよくあります。
立位時の不安定さは、ちょっとした動作でも転倒につながる危険性を秘めています。
朝起きてトイレに行こうとした瞬間、ベッドから立ち上がった直後など、日常の何気ない動作が事故の引き金となります。
リハビリへの情熱が生む予期せぬ危険
Aさんは早く元の生活に戻りたいという強い願望を持っていました。
調子の良い日には、時間がかかっても自分の力だけで着替えをしようと試みます。
こうした前向きな姿勢は、回復を目指す上で本当に素晴らしいことです。
医療スタッフとしても、患者さんの意欲を応援したくなります。
ただし、ここに落とし穴があるのです。
自分でできることを増やしたいという思いが強すぎると、周囲の助けを借りることを避けるようになります。
本人は大丈夫だと思っていても、実際の身体能力がそれに追いついていないケースは少なくありません。
特に誰も見ていない時間帯に、無理な動作を試みてしまうリスクが高まります。
スタッフの目が届かない夜間や早朝、そして休憩時間などは特に注意が必要な時間帯となります。
睡眠不足が招く判断力の低下
入院生活という慣れない環境、そして麻痺した部分のしびれが続くことで、Aさんは夜になってもなかなか眠れない日々が続いていました。
本人は日中の疲れでウトウトすることがあるから問題ないと考えているようでしたが、これは大きな誤解です。
細切れの睡眠では脳と身体の疲労は十分に回復しません。
睡眠不足の状態では、頭の回転が鈍くなり、とっさの判断ができなくなります。
夜中にトイレに起きたとき、まだ頭がぼんやりしている状態で歩き出そうとする、これが最も危険な瞬間です。
完全に目が覚めていない状態での移動は、転倒事故につながる可能性が極めて高くなります。
また、日中に眠ってしまうことで夜の睡眠リズムがさらに乱れ、悪循環に陥ってしまいます。
質の良い夜間睡眠を確保することは、転倒予防の観点からも非常に重要な要素となります。
薬の副作用がもたらす深刻なリスク
脳梗塞の再発を防ぐため、Aさんは血液をサラサラにする薬を服用していました。
ただ本人は、リハビリに集中していたこともあって、薬の詳しい説明をあまり覚えていないようでした。
この薬の存在が、転倒のリスクをさらに高めています。
血液が固まりにくい状態になっているため、転んで頭をぶつけたり、どこかにぶつけたりすると、普通の人よりも大きな出血を起こす可能性があります。
軽くぶつけただけでも、内部で大きな血腫ができてしまうことがあるのです。
特に頭を打った場合は、脳内出血のリスクが高まり、命に関わる事態になりかねません。
もし骨折などのケガをしてしまえば、出血のしやすさからリハビリの再開が大幅に遅れることになります。
せっかく頑張ってきたリハビリが、一度の転倒で台無しになってしまう可能性もあるのです。
実践的な転倒予防のアプローチ
転倒を防ぐためには、様々な角度からの取り組みが必要になります。
何よりもまず、患者さん本人に今の自分の状態を正確に理解してもらうことが大切です。
意欲が高い方ほど、自分の限界を認めたくない気持ちが強くなる傾向があります。
でも、今できないことを認めることは、決して恥ずかしいことではありません。
むしろ、それが安全で確実な回復への近道となります。
ナースコールのボタンを押すことをためらわないでほしい、これは医療スタッフからの切実な願いです。
トイレに行きたいとき、ベッドから起き上がりたいとき、少しでも不安を感じたら遠慮なく呼んでください。
周りの環境を整えることも重要なポイントです。
ベッドの周りに手すりを設置する、床には物を置かない、夜でも足元が見える程度の明かりをつけておく、こうした基本的な対策が効果を発揮します。
よく使うものは手の届く場所に配置し、無理な姿勢を取らなくても済むようにします。
睡眠の質を高めるための工夫
夜間にしっかり眠ることができれば、転倒のリスクは大きく減らせます。
日中の活動と休息のバランスを見直すことから始めましょう。
リハビリで疲れているからといって、日中に長時間眠ってしまうと夜に眠れなくなります。
しびれや痛みで眠りにくい場合は、我慢せずにスタッフに相談してください。
体の向きを変えるだけで楽になることもありますし、必要であれば適切な処置を検討できます。
寝る前に軽いストレッチをしたり、温かい飲み物を飲んだりすることで、リラックスした状態を作ることも効果的です。
睡眠の問題が深刻な場合は、医師と相談して睡眠薬の使用を検討することもあります。
家族との連携も重要な要素
患者さん本人だけでなく、ご家族の理解と協力も転倒予防には欠かせません。
面会時には、本人の状態や注意点について情報を共有することが大切です。
ご家族が本人に無理をさせないよう声をかけることも、大きな助けとなります。
退院後の生活を見据えて、自宅での転倒予防対策についても早めに考えておく必要があります。
意欲を尊重しながら安全を確保する
Aさんのように、一日も早く回復したいという強い気持ちは、リハビリを進める上で大きな原動力になります。
この前向きな姿勢を大切にしながら、同時に安全面にも配慮していく、これが医療現場の重要な役割です。
できることは自分でやる、でも危ないときは助けを求める、このバランスを保つことが大切です。
転倒は決して避けられない出来事ではありません。
適切な評価と対策を行うことで、多くの事故は防ぐことができます。
患者さん本人、ご家族、医療スタッフがチームとなって取り組むことで、安全で効果的なリハビリテーションの実現が可能になります。
毎日の小さな注意の積み重ねが、大きな事故を防ぐことにつながるのです。
回復への道のりは決して平坦ではありませんが、焦らず着実に、そして安全に進んでいくことが何よりも大切です。
転倒予防に関する正しい知識を持ち、実践することで、より安心してリハビリに専念できる環境が整います。








